快楽の果て
テキスト祭第一回参加作品)(ちょこっと改定ver.)


硝子戸を開けて取り出したカップを、沸かしたお湯で暖めておく。紅茶葉はシンクの下の艶消しの水色の缶から、二人分。使い込んで曇った銀色の匙に茶葉を乗せて冷たい陶器の縁にあて、これも暖めるべきか、と躊躇したが、面倒になってざらざらと放り込んだ。気取った所でこれは急須なのだ。紅茶を持ってきた時、まち子さんはこれは何処其処のメーカーの何とやらで、とか色々言っていたように思うけれども、どんな出自の宜しい葉っぱであっても、淹れるのは毎日割引シール付きで買ったお徳用緑茶500gパックの茶葉がかすかすになるまでお湯を継ぎ足し継ぎ足しして、安っぽい茶の匂いが染み付いた急須なのだ。然も注がれるのはマグカップ。紅茶がかわいそうだと思わない訳ではないが、それしか私の部屋にはない。明日もまち子さんが来るのならば、ティーポットを買うべきだろうか。

 取り敢えず色だけは綺麗に出た液体をマグになみなみと注いだ。私とまち子さんと縁がほんの少し欠けた、白い小花の散った萩焼のマグカップと桃色に椿の柄のマグカップと中の紅茶に囲まれている、兔の絵の入った急須と、灰色に群青の縁取りと魚の絵が描いてある皿が二枚、それから、橙色の綺麗な折箱。確か六日前、まち子さん、折箱、紅茶、皿、実家からの貰い物のマグ、一人暮らしを始めるときに買った急須のセット、が確立した、確かその日のまち子さんは、ドライチェリーの混じったバタークリームを挟んでいるサブレを二つ、持ってきたのであった。甘酸っぱいたドライフルーツとクリームの味わい、ざくざくとしたサブレの歯触り。徹夜明けの私の手を持ち上げてゆらゆらと揺するまち子さんの細い指の手触り。あれから毎日、私が大学から戻ってくる頃にまち子さんは私が見た事も無いようなお菓子を携えてやってきて、彼女の職場で起きた他愛無い出来事を話して帰っていく。折箱は渋みのある茶色の事もあるし、ミルキーピンクのつややかなコーティングの時もあったし、綺麗に包装されていることもある。紙ではなくてプラスティックパックだったこともあったし、缶だったこともあった。チェリーウィッチと一緒に運ばれた、艶消しの水色の紅茶の缶。

 折箱の中身を、まち子さんと私の皿に移す。魚の柄のもったりとしたつちものの皿の上で、花弁を模した薄いチョコレートの飾りをつけて、とろりと焦げ茶に光るケーキは見るからに濃厚そうだ。まち子さんは滑らかな表面を傷つけるのが勿体無いのか、手をつけずに紅茶ばかり飲んでいる。まち子さんの手が動く度に、肩口から巻かれた、明るい色の髪が揺れる。

 どうしてまち子さんが毎日私の家にやってくるのか、私は余り気にしていなかった。同じゼミにいた頃、私とまち子さんの関わりはそこまで濃くなかったので、まち子さんがどんな人か余り判っていないのだ。かつてまち子さんが仲良くしていたような人は、皆大学からいなくなってしまった。まち子さんが卒業して、就職して半年。まち子さんの日常はきっとがらりと変わったのだろうが、院に残った私の生活はこれまでとさして変化が無い。おんぼろの学生アパートだって引っ越してない。大学、研究、アルバイト、安居酒屋での飲み会、学生アパートの繰り返しとそのアレンジ。まち子さんは学生時代の空気が急に懐かしくなって、だから此処に通ってきているのだろうなどと漠然と思っていた。卒業して、半年経って、ある日携帯電話にメールが入ってまち子さんがやってきて、嫌いな人ではなかったし、とりわけて予定もなかったから、家に上げた。まち子さんの持ち込む他愛ない職場の話は面白かったし、その上まち子さんは中々の美人で目にも優しい。それだけじゃない、チェリーウィッチにマカロンにチーズケーキ、ギモーブにクッキーに今日のチョコレートケーキ、毎日のように持ち込まれるお菓子は貧乏学生の私には来訪の秘密に手をつけて失うには余りにも惜しい、魅力なのであった。

 ぼんやりとチョコレートの花弁をつついているまち子さんを放って、重たそうなコーティングに銀器の先を触れさせて、それが柔らかなソースで出来ていることに気付く。どんどん切っ先を飲み込んでいく。とろり、流れ出した艶々のグラサージュで切り口が覆われていく。少し明るい色をしたチョコレートのムース、翡翠色のピスタチオのババロアの下にグラデーションのように潜む鶯茶の生地、紅色の宝石のようなフランボワーズのコンフィチュール、チョコレートのムースよりは少し濃い、栗皮茶の、洋酒で潤びたチョコレートビスキュイ。香り高さと、苦味と、軽やかさと、芳しさと、鮮烈さと、重厚さ。一つ一つが際立って、重なって、再び、一つになる。目を閉じる。舌先に天国がある。ああ、まち子さんが明日も来るのならば、お皿は買いなおした方が良いだろう。やっぱりへんな魚のお皿じゃ、ケーキが可哀想だ。

 私が我を忘れて快楽に身を震わせているのを、いつの間にかまち子さんに観察されていたことに気が付いたのは、自分のお皿がすっかり綺麗になった後だった。まち子さんのお皿に目を彷徨わせて、私の目は瞬きを止める。無残に潰された神様の食べ物。すり潰された残骸の、体液のように皿を汚すチョコレートソース。ふわふわと微笑むまち子さん。銀色のフォークを持つ指の先は桜色に塗られていて、透明の石が光っている。睫の優美なカーブ。珊瑚色のグロスが塗られた小さな唇。私ね、この間まで恋人がいたの。あなたが今日まで食べてきた、私の持ってきたものは、全部、紅茶の種類まで全部、その人と口にしたものなの。あなたも知っている人よ。先週に、あなたが楽しそうに腕を組んで、歩いていたあの人。あなたがこの部屋の前で、口付けしていたあの人なのよ。まち子さんが来てからの私の生活。まち子さんが訪れる前の、私の生活。大学、研究、アルバイト、安居酒屋での飲み会、学生アパートの繰り返しとそのアレンジ。紅茶の水色の缶、チェリーウィッチにマカロンにチーズケーキ、ギモーブにクッキーに今日のチョコレートケーキ。肩口から巻かれた、明るい色の髪、桜色に透明の石が光る爪、珊瑚色のグロス、体液のように皿を汚すチョコレートソース。一つ一つが際立って、重なって、再び、一つになる。一つの意味を持つ。私の耳も、働きを止める。




■お菓子の名前とお店の名称
(縛り内のお菓子)
アンブロワジー
店名:ガトードボワ(関東ではイデミスギノで同じものが食べられます)

(おまけ)
チェリーウィッチ(ホテルカデンツァ光が丘内ボンパルファム)



※※文中に出てくるスイーツの名称はどこにあるか

アンブロワジー=神様の食べ物(アンブロワジーは邦訳すると神々の食物、と言う意味)
ガトードボワ=段落(一字下げの部分を一文字ずつ縦読みすると出てくる)









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